里正日誌の世界 『東大和市史資料編』7p13~16
ここでは、内野家が里正(名主)として治めた蔵敷村の概要と里正日誌の基礎となる文書・記録を作成した内野家の里正の人たち、それに里正日誌の特色等について簡単に述べてみたい。
二 蔵敷村の概要
現在東大和市に属する蔵敷村は、狭山丘陵南斜面に位置し、南端を野火止用水が流れ、地内を青梅街道が通る。正徳年間(一七一一~一五)に隣接の奈良橋村から分村した。
領主は、近世前期には旗本石川太郎右衛門であったが、享保十八年(一七三三)には幕府直轄領となり、安政五年(一八五八)二月から同六年三月までは一時的に熊本藩細川家の預り所となるが、再び幕府領となり明治維新となった。
村高は二一五石余で、その大半が畑作地帯であった。
家数は安永七年(一七七八)五十七軒、文化文政期(一八〇四~二九)五十五軒、慶応三年(一八六七)五十六軒で、ほとんど変化がみられない。
人口は安永七年 二五〇人、寛政期(一七八九~一八〇〇)二二〇人程度、文政元年(一八一八)は一九八人と最低となり、文政期後半から天保期(一八三〇~四四)にかけて二三〇人と回復し、以後幕末まで増加をたどり、慶応三年(一八六七)には三〇九人、明治七年(一八七四)には三三三人となった。
家数は固定化していたが人口は変動した。
近世後期になると、農間余業者が出現し、文政八年(一八二五)には炭薪渡世人が十八人も存在した。安政二年(一八五五)の書上げによると「農間稼、男ハ樵炭焼、女ハ木綿糸より同機織、江戸並びに最寄市場江持出し稼仕候」「産物柿栗、江戸並びに最寄市場江持出し申候」とある(『里正日誌』第七巻一三七頁)。女性の農間稼として行われた木綿織物は村山絣とよぼれ、当地方の名産となった。
三 幕末維新期の里正内野家の人たち
内野家は、慶長七年(一六〇二)以前より、現在の蔵敷に居住していたといわれる。内野家が蔵敷村の里正、すなわち名主役に就任したのは寛延二年(一七四九)からである。同年の「武州多摩郡奈良橋村之内蔵敷新田明細帳」に名主杢左衛門が登場する。内野家は代々杢左衛門を通称とした。
本書『里正日誌の世界』は、安政元年(一八五四)から明治二年(一八六九)までの幕末維新期の十五年間を対象としたが、この時期に関連し、活躍した里正杢左衛門は三人である。すなわち、孝秀・星峰・秀峰である。これら三人の簡単な紹介をしておきたい。
(一)内野杢左衛門、諱(いみな)重泰、号孝秀
内野家の菩提所である弁天墓地の墓碑によると、重泰は、寛政十一年(一七九九)に生れ、天保元年(一八三〇)三〇歳のときに父に代って里正となった。天保年中、父と相談して弁財天の村社を営む。安政三年(一八五六)五十七歳のとき、老を告げ、
14
緑右衛門と改名し、文久三年(一八六三)正月二十日病没、時に享年六十五歳であった。里正として二十七年間活躍した。
(二)内野杢左衛門、諱敷隆、号星峰
同じく墓碑によると、重泰の子敷隆は文政六年(一八二三)に生れ、初め福太郎と称した。安政四年(一八五七)三十五歳のとき、父の後を継ぎ杢左衛門と改名し、里正となる。同五年三十六歳のとき、蔵敷村が細川家の預り領となると、杢左衛門は細川家より苗字帯刀を許され、人足差配役を命ぜられる。文久三年(一八六三)四十一歳のとき、蔵敷村はじめ江川代官所支配の村々で農兵設置が実施されると、その世話役に任ぜられた。また所沢組合の小惣代名主として、組合内村々の訴訟の仲裁に入り、その多くを内済示談で解決した。明治五年(一八七二)名主制度の廃止により戸長となるが、すぐに子嘉一郎に譲った。明治十二年(一八七九)五十七歳頃より杢平と改名、同二十九年(一八九六)九月二十四日、七十四歳で死去した。
明治二年(一八六九)十月 韮山県役所から「寄特者」として褒美金二〇〇疋が与えられた。その表彰の文面には「蔵敷村名主杢左衛門、其方儀○鰹寡孤独ヲ欄小前之もの共質素之風ニ教導し勧農心掛候趣寄特之事ニ候、依而御褒美被下之」とある(『里正日誌』十巻五〇二頁、村からの推薦文は同書四九二~四九三頁にある)。
幕末維新期の十五年間に里正として活躍した杢左衛門は、この敷隆・星峰であった。
(三)内野杢左衛門、諱徳隆、号秀峰
「里正日誌」の編者と目されている秀峰杢左衛門は、安政三年(一八五六)に敷隆の子として生れ、嘉一郎と命名された。
明治三年(一八七〇)十五歳で名主見習となり、同五年(一八七二)十七歳で戸長となった。明治十二年(一八七九)二十三歳で第一期神奈川県会議員となり、同二十年(一八八七)まで八年間議員を勤めた。その間、同十三年二十四歳のとき国会期成同盟に参加し、翌十四年自治改進党にも参加した。この頃、新聞購読会を結成し、民権系の「曙新聞」「東京横浜毎日新聞」「朝野新聞」などの回覧や民権運動の普及に努めた。
明治二十二年(一八八九)三十三歳より昭和三年(一九二八)七十二歳まで高木村外五か村組合議員と大和村会議員に連続当選し、実に三十九年間にわたり公共に尽力したが、昭和五年(一九三〇)三月二日、七十四歳で死去した。
内野家は文政八年(一八二五)には持高一〇石一斗二升、農間商いとして炭薪を販売した。安政五年(一八五八)からは質屋稼ぎを営み、元治元年(一八六四)には持高十五石七斗余となった。明治三年(一八七〇)には所持地も五町一反歩と村内では最大の地主であった。内野家は、秀峰杢左衛門以後は、玉峰禄太郎、悌二、秀治の各氏と連綿と今日に至っている。
四 里正日誌の特色
里正日誌の全冊を必ずしも把握しているわけではないので、ここでは、刊行された『里正日誌』から、その特色と思われるものを若干あげてみることとする。
p16
①里正日誌は、必ずしも後世の単なる編さん物ではなく、幕末期においては、同時代の記録といえる。とくに星峰杢左衛門敷隆が活躍した時代は敷隆が作成した記録に、「里正日誌」という表題を付したともいえる。例えば、元治元年里正日誌では表紙の次にある中扉(内扉)の表題は「元治元甲子年正月ヨリ御支配様御用向 諸留控 蔵敷村里正内野杢左衛門所蔵」とあり、敷隆・杢左衛門の作成した「諸留控」が、丸ごと「里正日誌」という表題が付されているのである。同じことは、慶応二年里正日誌二冊上、慶応三年里正日誌についてもいえる。とくに慶応三年里正日誌の中扉には「慶応三丁卯年御支配御代官御用留記 附農兵一件書込 蔵敷村村長内野杢左衛門敷隆」とあり、敷隆という作成者名が記入されているのである。
②里正日誌は、各冊とも比較的まとまったテーマの文書が集められ、編さんされている。例えば、文久三年里正日誌は農兵特集、慶応二年里正日誌二冊上は武州世直一揆特集という観を呈している。
③里正日誌には、蔵敷村の記事だけではなく、近隣はいうまでもなく他国の出来事も収録されている。これは当時の情報収集のあり方を研究する手がかりを与えてくれる。
④里正日誌には、当時の原文書がしばしば綴り込まれており、また、現場に立合った人間でなければ知り得ない記載が少なからずみられる。また、関係する日記や手紙も収録されている。
以上のことから、この里正日誌は、単なる御用留や日記とも異なり、むしろ、それを総合的に編さんした一種の史料集という性格を有している。このような史料編さんが、いつ、どのような意図でなされたか。その解明は今後の課題である。